小説・キズナの詩(前編)
本日はヨスが書いた親子系ジャンルの小説をアップロードしてみます。前後編にわけていきます。お暇な方は見てやってください。
キズナの詩 作者:ヨス
お前のためなら全力になれる。
そんなかけがえのない絆。
あなたは持ってますか?
昔はあたしにだって、白い花のような、純真な時期というものがあった。それはあたしこと、平林きずなが小学三年生の時のこと。
築十年のアパートがあって、開け放たれた窓から吹き込むのは春一番の風だ。窓際に腰を下ろしている平林一心は腕の中にアコースティックギターを抱えている。
六本の弦が奏でる旋律は、時に優しく、時に雄々しく。
春以上に春らしいその音色は、目を閉じて耳を傾ける者の心に、お日様のような温かいものを残していく。
「わー、すごいすごい!」
あたしは、パチパチ、と拍手をする。
「すげえのは当然だろ? 俺が弾いてるんだからな」
父さんは白い歯をむき出してニンマリと笑い、わしゃわしゃとあたしの頭を撫でてくれた。
言葉遣いは乱暴で、子供がそのまま大きくなったような父さん。休みになれば公園へと飛び出してって、あたしとか、近所の子供と一緒になって馬鹿騒ぎをする父さん。そしてなにより好きなのは音楽をやっているときの父さんだ。
「父さん、あたしもギターやってみたい」
「じゃあこっちにこいや。ここを押えて――」
みょ~ん……。みょ~ん、みょ~ん、みょ~ん。
あたしが弦を弾くと気の抜けそうな音が響いた。リズムも音色もなっちゃいない。
「あ、音が出た! ……でもなんか変な音だよ?」
「そりゃお前、きちんと押えられてないからだな」
「うあー、ギターって難しいんだね」
「どんなことも最初っから上手くいくはずないだろ。練習しまくるんだよ。そうすると指の皮が硬くなってきてな、弦を押えやすくなるんだぜ」
「父さんも、がんばって練習したんだ?」
「まあな。音楽で飯を食うのが夢だったからな」
父さんの手を握ってみると指がカッチンカッチンなのがわかる。
「……なあ、きずな。お前には夢ってあるか?」
父さんは珍しく真面目な顔をしていた。
「あたしは父さんのお嫁さんになりたい!」
そう言うと、父さんの動きが一瞬停止し、頬をぽりぽりとかきはじめる。
「嬉しいこと言ってくれるじゃねえか。まあ、それもいいんだけどよ。将来なりたい職業はあるか?」
「そーいうことなら……、何でも治せるお医者さんになりたい」
背中越しに伝わってくる父さんの心音が、少しビートを早めた気がした。
「それで母さんの病気を治して、また三人で一緒に暮らしたいなって」
「そっか……」
父さんの大きな手があたしの頭に添えられて、ぽふぽふなでなでとしてくれる。少しだけしんみりとした空気。母さんは、今、病院に入院してるのだ。
「じゃあ、今日も由紀の見舞いに行くとすっか!」
「うんっ!」
父さんの太陽のような明るさの中に、ちょっと……、ほんのちょっとだけ、海のような寂しさがあったのを、あたしは今でも覚えている。
もしかしたら、父さんは母さんがすでに長くないことを知っていたのかもしれない。
☆ ☆ ☆
「だからっ、食べ物を残すなっ!」
「朝からうっせえな! そんなにガミガミ怒鳴らなくたって聞こえてるっての!」
ついに築十八年に到達したアパートを破壊しようかという怒鳴り声の応酬が、今日も始まった。早朝からエネルギーを使いたくないのは、あたしだって同じだ。
言い合いの原因は目の前にいる親父――平林一心にある。無精ひげに、まとまりのない髪の毛、上はシャツ一枚、下はトランクス一丁という、気の抜けたスタイル。ひどい格好だが日常茶飯事だし、あたしも見慣れてるし、それはさしたる問題ではない。
「プチトマトを残すなっ。もったいないでしょうがっ!」
「そんな食感の悪いもの死んでもくわねえからな。てか、お前、学校に遅刻するぞ!」
「世の中には食べたくても食べられない人がいるんだから。つべこべ言わずに食べろ! あと、親父が食べたらさっさと学校へ行くっての!」
部屋の中央にあるちゃぶ台の周りをドタバタと駆け回る。今日もうるさくしてごめんなさい、ご近所様。でもせっかくのプチトマトをありがたく頂けないこいつには、躾が必要なんです。
ついに壁を背にした親父へ、プチトマトを右手に持ったあたしは襲い掛かる。
親父は手首のしなやかさを利用したスナップでプチトマトを撃墜しようとする。だが、甘い。あたしはプチトマトを持つ右手の軌道を、蛇みたくニョロリと変えて回避。驚きであんぐりと開いた親父の口へ、あたしはプチトマトをシュートする。
「どんな食べ物にも感謝して食べなきゃ。残したら、もったいないオバケがでるわよ」
「げほっ、げほっ! 俺はオバケなんざ信じてないからいいんだよ」
「オバケがいるとかいないとか、そーいう話じゃないの。って、あああっ! もうこんな時間なのっ!?」
ふと時計へと目をやれば七時四十五分を過ぎている。自転車を全力でこいだとして学校までは三十分ぐらい。始業ベルは八時十五分。やばい、遅刻の危機だ。
学生鞄は何所へ……。視線を走らせると、部屋の隅の立てかけられたギターケースの側に、目的の鞄はあった。鞄を乱暴に引っつかむと、タンスの上におかれた母の写真――平林由紀の写真に一言告げる。
「母さん、行ってくるね」
あたしは壁に寄りかかった親父の上をひらりと飛び越えへ、玄関へと突っ走る。
「おい、きずなっ」
革靴を履きながら振り返れば、そこには手を振っている親父の姿があった。
「今日も元気に行って来いや」
「うん。行ってきますっ!」
親父が満面の笑みで送り出してくれるから、今日もあたしは元気よく家を飛び出せるのだ。
☆ ☆ ☆
母が病気で亡くなってから六年が経ち、平林家は親父と、高校二年生になったあたしだけになった。喧嘩したり、笑いあったりと賑やかな我が家。ご近所様の間でも、騒ぎがあれば「また平林家か」と思うことだろう。
今日のお弁当にいれたプチトマトしっかり食べてるかな。食べなかったらどうしてくれようか。そんなことをぼんやりと考えていると、
「きずな……、ねえ、きずなってば。私の話、聞いてよう」
声がするほうを見れば同じクラスの山本陽子がいた。
ちょっとぽっちゃりとした、丸みのある女の子。三つ編みにまとめた髪が妙に似合っている。右手には、五個入りのミニアンパンの袋があった。
食いしん坊で運動とかは苦手だけど、そこにいるだけで他人を癒せるような、優しい雰囲気を陽子はもっている。彼女とは中学校からの付き合いだ。
「ええと、ごめん。ぼーっとしてた。あはは……」
「リクエストが入ってるよ。パニッカーズの『絆』だって」
「絆……。どんな曲だっけ?」
「『あなーたーの笑顔が~、僕の笑顔~』って感じのサビなんだけど。弾けそう?」
「オッケー。なんとなく思い出してきた。弾いてみよっか」
弁当を食べて一息入れた後に、ギターを弾くのが昼休みの習慣だ。このギターはあたしの物ではない。あたしが弾けると知った陽子が、わざわざ持ってきたものだ。
クラスの喧騒が遠のいていく。クラスメートは音色に心をゆだね、足を止めて廊下から覗いてくる人たちもいる。
「さすがだよね。ホント、上手いなあ」
「上手くないってば。あたしのギターは本物じゃないし」
うっとりとした声でほめてくれる陽子を前にして、あたしは内心で苦笑する。確かにそこいらの人よりも技術はあるかもしれない。でも、本当に音楽が上手いというのは、音を通じて誰か一人の心に、根強く何かを残せるということ。あたしのギターは上辺だけ。
「きずなのお父さんと比べちゃうと、まだまだダメ、なんだよね? 相変わらずだなあ」
「……なんでそこでちょっと笑うわけ? っていうか、相変わらずってなによ?」
「ふふふっ。相変わらずお父さんが大好きなんだなあって」
「ばっ、誰があんな奴のことっ!」
「はいはいっ。嫌いなんだよね? わかったわかった」
「なによその妙に温かい眼差しはっ!」
こいつはあたしが親父と仲がいいことを知っている。念のため言っとくが、ファザコンではない。それでも世間一般の父娘の関係よりは仲がいいのは認めよう。
親父ウザイクサイキモイとかいう、多くの女子高生に見られる反抗期的な感情は、あたしにはないのだ。でも、ダメなことはダメとはっきり告げる。そこから喧嘩に……、喧嘩っぽいものに発展することはある。
じゃあマジ喧嘩はないのかと聞かれれば、そんなことはない。あれは今から三年前。一度だけ本気で親父と喧嘩したことがある。
お互い意地っ張りだから、謝りたいけど謝れない状況が三日ぐらい続いただろうか。
仲直りの瞬間は唐突にやってきた。
瞳を閉じれば、今でもまぶたの裏に浮かび上がる。授業中にもかかわらず教室へ乗り込んできて、「きずなぁ! 俺の歌を聞けぇ!」と叫び、親父はギターをかき鳴らしながら全力で歌い始めたのだ。
『お前を見つめるけど ごめんなって言葉に出来なくて
口を開きかけるけど すまねえって声にだせなくて
素直になれなくて 感謝は伝えたくて
だから不器用な歌を歌おう 感謝の光を集めて歌おう
いつだって どんなときだって 感謝してる
叱ってくれて 笑顔を見せてくれて 感謝してる
俺が笑っていられるのは お前のおかげだ
一緒にいてくれて ありがとな』
あたしは唖然とした。教室は騒然とした。教師は愕然とした。
周りからみれば意味不明な曲だったろう。
でもあたしにとっては最高の曲だった。
六年という年月は色々なものを得たり、失ったりするには十分な時間だけど。
まったく変わらないのは、あたしが親父を大好きということだ。
☆ ☆ ☆
ある日の放課後ホームルーム。
「自分の将来のことなんだから、しっかりと考えるんだぞ」
そう言い残して、担任はホームルームを締めくくるように学級委員に指示を出す。
学級委員は挨拶の号令をすませると、すぐさま何かを読み始めていた。あれは赤本だ。
赤本。大学別の入試過去問題集と表現するとわかりやすいだろうか。
赤本を読んでいるから、あの学級委員は大学入試組なのだろうとわかる。
「きずな~、これ、どうすればいいかなあ」
放課後の喧騒が教室内に広がる中、陽子が右手に一枚の紙を、左手にポテチの袋を持って、トテトテ歩み寄ってきた。
どこか小動物っぽい陽子の瞳に困惑が宿っている。彼女の右手には進路調査票という紙があって、奇遇なことにあたしの右手にも同じものがある。
「自分が何になりたいか。そこを詰めて考えれば、書けるんじゃない?」
「将来なりたいもの? たとえばお嫁さんとかかなあ」
「心のすさんだ現代人からは聞けそうもない将来像が、ここで聞けるとは。あたしゃあ感動のあまり、泣きそうだよ」
頬に手を当てて悩む彼女は実に愛らしい。彼女ならきっと良いお母さんになれるだろう。もしも、あたしが男だったら放っておかないところだ。
「きずなはなんて書くの?」
「そうねえ。あたしは……」
あたしは5センチ以下になった短い鉛筆で進路調査票に、とある大学の名前を書いてみた。鉛筆の長さ的にちょっと書きにくい。でもまだまだ使える鉛筆だし、捨てるのは勿体ないと思ったり。
夢はあるのかと問われれば答えは即答できる。
母を奪った病を、治せるような医者になることがあたしの夢だ。
でも、医者になるには莫大なお金が必要だ。たとえ国立の大学に入ったとしても数百万は掛かってしまう。平林家にそんな金があるのかと自問自答すれば、答えはノーである。お金はない。借金はある。母が生きていた頃に、治療代がふくらんで出来てしまった借金が。
医者になれないなら大学に未練はない。一人奮闘する親父を助ける意味でも、就職を目標にすべき――なんて理屈では思うのだけれど。
☆ ☆ ☆
「で、なんであたしは大学の資料請求をしちゃったんだろ。バカじゃん……」
吸い込まれそうな青空の下。どんよりとした雲みたいな気分で自転車を押して歩く。
隣に陽子がいれば、どうしたの、と聞いてくれるだろう。でも、陽子は委員会に参加しているから、隣に彼女の姿はない。
「ホント、バカなんだから……」
もう一度、繰り返す。
あたしの学生鞄の中には、とある国立大学のパンフレットや資料がある。物量的には重くはないが、どっちかというと罪悪感で心が重い。
偶然、自宅から通える範囲の国立大学の名前を知っていて、資料を請求できる環境がある我が高校が悪い。そういうことにしておこう。
ともかく頼んでしまい、手元に来てしまったのだ。読まずに捨てるというのもどうかと思う。かといって自宅で読むのも気が引ける。そういう時に入り浸るのは、あそこしかない。
自転車を押して、わき道にそれると、とある店が目に止まった。
楽器専門店『フロンティア』。
店の看板には赤錆がついていて、外見からして老朽化が進んでいるその建物は、地震でもきたらつぶれてしまいそうだ。
意外に広々とした店内。外見とは裏腹に、窓際に指を滑らせてもチリひとつない清潔感。ギターだったりトランペットだったり、フルート、ピアノ、ハープ……エトセトラエトセトラ。いろんな楽器がある。古いものが多いが、楽器として愛されているのがわかる。手入れが行き届いた楽器は、味があるといえるだろう。
「おやまあ、きずなちゃん。いらっしゃい」
店の奥から現れたのは、背中が丸くて一本の杖を支えに立っている、いかにもおばあちゃんといった風貌の女性。笑い皺が年輪のように刻まれ、どことなく恵比寿様を連想させる目じりをしている。
「こんにちは、おばあちゃん。お邪魔してます」
あたしは笑顔で挨拶をする。老女も微笑み返してきて、より一層、皺が深くなる。
彼女の名前は山本晴子。フロンティアの店主であり、陽子のおばあちゃんでもある。
「飲み物はお茶でいいかねえ?」
「あ、いいよいいよ、おばあちゃん。あたしがやるからさ」
店の奥へと向かおうとする晴子おばあちゃんを追い越して、あたしはテキパキと行動する。
「いつも悪いねえ」
「気にしないで。おばあちゃんはカウンター席にでも腰掛けて待ってて」
「お茶の場所は――」
「大丈夫。全部わかってるから!」
自宅件お店であるフロンティア。店の奥に晴子おばあちゃんの生活する居住空間がある。八畳の広さの和室。お茶があの戸棚にあって、お茶菓子はこっちの棚にあって、と大体の場所は把握している。
あたしと晴子おばあちゃんは、店のカウンターにお茶菓子と湯のみを並べて仲良く談笑を始めた。お客は一人も来ない。よくお店が続くなあと思うかもしれないが、先立ってしまった旦那さんの残してくれた遺産で経営する趣味的な店だから、客がいなくても問題ないとのことだ。
晴子おばあちゃんとあたしが話し始めて一時間が経過。あたしの次に店へと来たのは、
「おばーちゃん、遊びに来たよ。って、あれ? きずなってば、来てたんだ?」
ドーナツをはむはむと食べている陽子に向かって、あたしは手をひらひらと振った。
☆ ☆ ☆
「勇敢な一歩なら~ 後悔など置き去りさ~」
店のギターを借りて、西遊記というグループの『明日へと続く道』を歌う。陽子は一曲終わるたび、嬉しそうに拍手する観客と化していた。晴子おばあちゃんは、相変わらずニコニコするばかり。
どうやって集めたのかは謎だが、この店の楽器は有名なものが多いらしい。今、あたしが手にしてるのは、世界中のアーティストから支持されているマドロエルというブランドのものだ。
あたしが生まれるよりはるか昔に、クラシックギターの神様と呼ばれたジェラルド・オースティンという男がいた。彼を魅了し、「生涯、自分はマドロエル製以外のギターは使わない」とまで言わせたブランドとのことだ。
繊細でありながら透明感のある音を売りとしており、その音色の美しさときたら、音楽のプロが聴けば弦の響きから「マドロエル製だな」とわかるほどとか。
マドロエル製のギターは、一般に売り出されているもので十万円以上はする。目玉が飛び出そうなほどの値段。十万円もあったら、十キロが三千円相当の米をどれだけ買えるだろう。ふむ、大体三百キロ相当は買えるのか。
「ふと思ったんだけど、あたしが使ってるこのギターって一台どれくらいすんの?」
質問すると陽子が、しれっと、
「八十万円ぐらいじゃなかったかなあ」
「は、はちじゅうまんえん!?」
「おばーちゃん、そのぐらいだったよね?」
あたしの全身から汗がぶわっとふきだした。
「たぶん、それぐらいだった気がするわねえ」
「どうしてそんなに高いのよ!」
「そのぎたーは、おーだーめいど……とか言ったかねえ。ともかく、手作りだからねえ」
カタカナが片言っぽい晴子おばあちゃん。外国語は発音しにくいらしい。
「マドロエルにオーダーメイドしたもの? な、なるほど。値段が高くなるのも当然か」
マジですか。これが八十万円の重みですか。お米や野菜が一体どれだけ買えるんですか。店内にあったフルートも、ハープも、ピアノも、寿命が縮まるような値段がついているのだろう。
「たぶん、おばーちゃんが持ってたギターの中でも一番だと思うよ」
「いや、陽子や。それは違う」優しく否定したのは晴子おばあちゃんだ。「今は一番だけどね、昔は、もっと素晴らしいぎたーがあったのよ」
あたしはさらにぽかんとする。顎が外れそうなほど、開いた口がふさがらない。
「じぇらるど・おーすちんっていう有名な音楽家がおーだーめいどした、ぎたーが手元にあったこともある」
じぇらるど・おーすちん? ……まさかジェラルド・オースティンのこと!?
「ギターの神様が使ってたギターがあったの!? っていうか、売っちゃったの? そんな国宝級のギター二度と手に入らないよ。晴子おばあちゃん、もったいないよ!」
「いや、売ってはいないんだけどねえ」
「じゃあ、ここにあるってこと?」
それだと会話の流れがおかしい。晴子おばあちゃんは「昔はあった」と言った。つまり「今はない」ということ。
やきもきするあたしをよそに、晴子おばあちゃんは冷めてしまったお茶を静かにすする。
「二十年近く昔、ある若者に譲ってしまったんだよ」
「譲った? 無料で!?」
「譲ったのだから、お金をもらうわけにはいかないだろう?」
晴子おばあちゃんが微笑むと、ますます恵比寿様に似ていく。
晴子おばあちゃんからは後悔の念は感じられない。でも、あたしは理解できない。音楽を愛するものにとっての宝を、譲ってしまうという行動が。晴子おばあちゃんにとって、どんな得があるというのか。
「私は彼の音楽に心を奪われてしまったさ」
おばあちゃんはお茶をずずっとすする。
「こことは離れた町であの人は路上で座り込み、ぎたーを弾いていた。彼の音楽を聴いた瞬間、恐ろしいほどの電気が私の身体を走り抜けてねえ。技術はなかった。歌詞は荒々しくて、たとえ百歩譲ったとしても歌が上手いとは言えなかった。それでも、彼の発する声には魂があった。なにかを伝えたい思いがあった」
過去を懐かしむ晴子おばあちゃんは、どこか遠い目をする。
「誰かに思いを伝えたいという気持さえあれば、音楽の力に限界はない。……誰の言葉か知ってるかい?」
あたしはこくりと首を縦に振る。ジェラルド・オースティンが生前に残した名言である。
「あの人はそういう気持ちを、しっかり持っていた。それが私の心を奪ったんだろうねえ」
☆ ☆ ☆
親父と娘で囲む食卓の時間を終えると、あたしは自室へと足を運んだ。
我が家は1LDKである。唯一、プライバシーが得られる個室をあたしが使い、リビングを親父が使っている。夕食を終えテーブルを片付ければ、あら不思議。親父の部屋となるわけだ。
あたしの部屋には勉強机とちょっとした本棚と洋服タンス、あとは布団しかない。勉強机といってもちゃぶ台みたいな机だ。寝るときには部屋の隅に立てかけ、布団をしく。
「あたしの将来……か」
鞄から取り出した大学の資料を、ぼんやり眺めた。
医者になりたい。誰かにとって大切なその人を、救えるような医者になりたい。
でも……、だけど……。
我が家には借金があって、大学に行けるような余裕はない。
あたしが医者になりたいって言ったら、親父はどんな顔をするだろう。
きっとあの人のことだから、俺がどうにかしてやる、って言うのだろうけど。
あたしは他の誰よりも近くで親父の背中を見てきたから知っている。
母を失い、それでも立ち止まることなく生き続けた親父を知っている。
辛かっただろうに、悲しかっただろうに、あたしは親父が弱音を吐くところも、泣くところも見たことがない。その強さがどこから来るものなのか、あたしにはわからない。母との約束なのかもしれない。
なんにせよ。
あたしにはこれ以上、親父に無理を強いるなんて出来なかった。
「おーい、きずな。開けるぞ~」
「えっ、ちょ、待って!」
こんな大学の資料なんて持ってたら、なんて言われるか。あたしは大慌てで本棚の右隅っこに資料を押し込む。
「なんだ、なんだ? エロ本でも読んでたのか?」
「あたしを思春期真っ只中の男子学生と一緒にするな、クソ親父っ!」
「なんだよ、違うってのか? じゃあ、一体、なにを……、なんだこりゃ?」
風呂上りなのか髪をバスタオルで拭く親父が、娘の部屋にどかどかと侵入してくる。そしてつまむようにして手に取ったのは床にあった『それ』である。
「進路調査用紙?」
「あっ!」
親父は首をひねり、あたしはやっちまったという顔をする。親父の手の中にある用紙を、ひったくるようにして奪った。大学資料を取り出したとき、気づかずに用紙までついてきていたようだ。
「これはなんでもないからっ! 気にしないでっ! は、ははははっ」
「進路ねえ。そうだよなあ、お前も高校三年生になったんだもんな。今でもやっぱり医者になりてえのか?」
「え、いや、今は医者以外に夢があるかな~なんて」
あたしは耳を疑った。あたしがいつか語った夢を、親父が覚えていてくれたからだ。
「別の夢? 何になりてえんだ?」
唐突な質問にあたしの脳みそはフル回転する。ここで答えられないようなら、やっぱり医者なのか、なんて親父に言われてしまう。そうなったら上手く誤魔化せる自身はない。
考えろ、考えろ、考えろ! 嘘つきな今のあたしは何になりたい?
そんな時、わらを掴む気持ちですがりついたのは、親友が言葉にした単語だ。
「お、お嫁さんかな?」
「え、マジで? 今でも俺のお嫁さんになりてえの?」
「違うっての!」
ごすっ!
あたしが顔を真っ赤にしながら咄嗟にはなった突っ込み――右アッパーが親父の顎へとクリーンヒットした。
「なにしやがる! 痛えじゃねえか」
「うるさい! 親父の嫁とまで言ってない! つーかそれを覚えてるんじゃない! 今すぐ記憶喪失になって忘れろ!」
「なにい!? じゃあ俺以外に、好きな男がいるってのか! 今度、家に連れてこいや!」
「いないっての、好きな人なんて!」
今日もうるさいぐらいに賑やかな平林家。
その時、ふと思った。
こうやって騒いでいると、天国にいる母さんまで声が届いてるんじゃないかなって。
もし届いてるなら、母さんはどんな顔をしてるだろうか。
☆ ☆ ☆
休日のあとの登校ってのはどうしてこうも、かったるいんだろうか。
あたしは月曜の朝にもかかわらず机に突っ伏し、一週間の疲労が蓄積された金曜日の気分でため息を吐いた。
「きずなっ!」
ぽっちゃりとした身体をゆらして駆け寄ってきたのは陽子である。彼女は学級委員の席にぶつかって、赤本やらその他の参考書を撒き散らしてしまった。かなり慌てた様子だ。どうしたのかな、とあたしが首を傾げていると、
「タイヘンっ、タイヘンだよっ!」
「んー、朝からどうしたの。ヘンタイでも出たの?」
「土曜日にね、おばあちゃんの店にギターを売りに来た人がいたらしいんだけどねっ。そのギターがなんとねっ、なんとねっ! この前、話してたオースティンが愛用してたギターなんだって!」
「ふーん。そうなんだ……」言葉の意味を理解する前に適当な相槌を打つ。やがてその意味が意識へと徐々にしみこんできて、「えええっ! あのギターが返ってきたのっ!?」
がたたんっという音をたて、あたしは立ち上がり、陽子へと詰め寄る。クラスメートから注目されてしまったが、どうでも良かった。
「今日、見に行ってもいいかなっ! いいよねっ?」
「いいと思うけど……、あー、でも……」
「どうしたのよ。なんか都合でも悪いの?」
「おばーちゃんの様子が、どーもおかしいんだよ」
キズナの詩(後編)に続く
内容が少しでも気に入ってもらえたら、登録よろしくお願いします。とっても励みになります。⇒ 読者になる